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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑫ 村屋神社・中ツ道(田原本町)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑫村屋神社・中ツ道(田原本町)

 

大伴吹負に「中ツ道を防げ」と神託した村屋神

 

村屋神社は、三穂津姫命(みほつひめのみこと)と大物主命(おおものぬしのみこと)を祭神とする古社で、「縁結び」「家内安全」の神として信仰を集めています。正式には「村屋坐弥冨都比売神社」と書かれ、大和三道の一つ「中ツ道」に面して鎮座し、通称、村屋社、または森屋の宮ともいわれています。

 

『日本書紀』によると、672年、壬申の乱の際、村屋神が神主にのりうつり、大海人皇子方の将軍・大伴吹負(おおとものふけい)に「わが杜の中を敵が来る。社の中ツ道を防げ」と助言があったといいます。

 

中ツ道は、飛鳥から香久山と耳成山の間を通り、奈良市の中央部付近に至る道。吹負は、他の幹線道「上ツ道」「下ツ道」は配下の部隊に守らせ、自らは村屋神のお告げの通りに「中ツ道」の警護にあたりました。

 

この事前の警備体制が効いたのでしょう。吹負は敵軍を堂々と迎え撃ち、敗走させました。同じ頃、上ツ道でも吹負の軍勢が勝利。以後、近江軍は大和に攻め込んでこなくなったといいます。村屋神社は、このときの功績から、神社として初めて天皇(天武天皇)から位を賜ったということです。

 

このエピソードは、同じく神託のあった河俣神社(本シリーズ記事③)と類似していて、河俣神社も壬申の乱後、天武天皇(大海人皇子)から神位が授けられています。

 

現在、村屋神社の東を流れる大和川沿いは、随所に「しきのみち はせがわ展望公園」が整備されていて、川沿いに咲く桜の季節を中心に、格好の散策の場になっています。

 

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ③ 河俣神社(橿原市)

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑪ 飛鳥の戦(明日香村)

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑬ 高安城・衛我河の戦(平群町)


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