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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑨ 菟田の吾城(阿騎野)(宇陀市)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑨菟田の吾城(阿騎野)(宇陀市)

 

飛鳥時代の遺構と風景。吉野から美濃への道中、大海人皇子一行が立ち寄りました。

 

1995年、中之庄遺跡の発掘調査が行われ、飛鳥時代(7世紀後半~末)の遺構が見つかりました。また、『日本書紀』に記された、記録上日本最初の薬猟が開催された「菟田野」もこの周辺であることがわかりました。

 

遺跡で確認された遺構を復原・保存するとともに、整備されたのが阿騎野・人麻呂公園です。敷地には、当地ゆかりの万葉歌人・柿本人麻呂が馬にまたがる石像が建てられています。復原されている竪穴式住居は意外なほど高さが低く、飛鳥時代の人々の暮らしぶりを思い浮かべることができます。

 

この一帯、壬申の乱の折に、大海人皇子が吉野を出て進軍の途中、一時滞在した「菟田の吾城(うだのあき)」だと考えられています。大海人皇子と行動を共にしたのは、子の草壁皇子と忍壁皇子、のちに持統天皇となる妻の鵜野讃良皇女、複数の舎人(皇族に仕えた官人)と侍女たちでした。

 

一行が「菟田の吾城」に滞在した頃は、まだ戦火はあがっていませんでした。大海人皇子は自分に味方してくれる豪族を頼り、また、“敵”である大友皇子が支配する当時の都・大津京から脱出してくる子の高市皇子や大津皇子らと合流を意図して、伊賀~伊勢~桑名~不破(関ケ原)へと隠密に移動していた最中で、「菟田の吾城」の人々に歓待されたものの、油断大敵、心から安らぐことはなかったはずです。

 

ただ、本シリーズ記事の後半で紹介しますが、「菟田の吾城」への恩は忘れておらず、大海人皇子の妻でのちの持統天皇が、阿騎野のこんもりとした山に「高天原」と名をつけられた-という伝承が残っています。

 

阿騎野・人麻呂公園は、東方に高見山、西方に音羽山や西山岳といった山々を見渡せると同時に、周辺散策にも適した立地。かぎろひの丘万葉公園へは約200m、滝のように枝垂れる「又兵衛桜」へは約1.2㎞、「大宇陀温泉 あきののゆ」へは約1㎞です。

 

「又兵衛桜」の詳細はこちら

「大宇陀温泉 あきののゆ」の詳細はこちら

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