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『大和名所図会』今昔めぐり 35 山上嶽の窟道(巻之六)(関連スポット:大峯山)(シリーズ最終回)

江戸時代の作家・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎が奈良を訪れ、183点の絵と紀行文をまとめ、寛政3年(1791年)に刊行した『大和名所図会』。奈良県内各地の風景や社寺境内の鳥瞰図、自然や旧跡、年中行事や名産・習俗・伝承などが掲載され、奈良の魅力が盛りだくさんに紹介されています。江戸時代の作家と絵師が見た奈良の名所風景をたどり、追体験を楽しめるスポットを紹介していきます。
【参考】『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会』(大正8年)(国立国会図書館)

35.山上嶽の窟道(巻之六)(関連スポット:大峯山)

 

本記事が参照している『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会』(大正8年)(国立国会図書館)に掲載されている最後の挿図がこちら。森の中を流れる川を、お坊さんの姿をした男が岩から岩へ飛び移り、川を渡ろうとしているシーンです。その表情は険しくなく、トレッキング気分で山歩きを楽しんでいるように見えます。

 

実はこの山、挿図のタイトルにあるように「山上嶽」です。大和名所図会の本文には「山勢高峻」「霜雪厳沍(げんご)」「山路嶮岨(けんそ)」などと、その険しさを強調して書いています。その山中、軽々と飛び、余裕たっぷりに満喫しているこの人物、かの「役行者」なのです。

 

大和名所図会では「役優婆塞(えんのうばそく)」=出家していない男性修行者として紹介されている役行者は、「大和国葛城上郡茅原里の人」で、「舒明天皇六年(634年)に出誕し」たようです。そして、32歳のときに葛城の岩窟にこもり、藤を衣に、松の葉を食べて、孔雀明王の咒(じゅ)を唱えて、五色の雲に乗って宙を飛び、仙境に遊んだ-とか。

 

この挿図でも、役行者は藤のツルを右手に握っています。激流を越えようとする瞬間、足を滑らせたら一大事。そんな緊迫した場面ですが、ご本人はいたって余裕シャクシャク。深く、険しい山上嶽も役行者にしてみれば、楽しいアトラクションのようです。

 

役行者は「文武天皇大宝元年六月七日、寿齢六十八」でなくなった飛鳥時代の人物ですが、修験道の祖として仰がれるようになったのは、鎌倉時代になってから。山上嶽はその聖地として、江戸時代には参詣者が列をなして登りました。

 

大和名所図会本文にはご丁寧に「今寛政二年に至って千九十余年になる」と没後年数が書かれています。その9年後の寛政十一年(1799年)、役行者に「神変大菩薩」の諡号がさずけられました。おそらく、ご本人、「死んでから千年以上が経っているワシに…、いやはや」と驚き、こめかみあたりをカリカリとかいていることでしょう。

 

さて、現代の山上ヶ岳(大峯山)へは、天川村からも登ることができます。挿図にあるような激流を飛び越える場面はありませんが、巨岩をよじ登ったり、崖の上から奈落をのぞき込んだり、数々の修行の場があります。余裕なんてとんでもない。気を抜くと、滑落、捻挫、その他思いもよらぬトラブルが待っていますゾ。

 

お気をつけて、お登りください。

 

修験道の聖地を登るモデルコース記事はこちらです。
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