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大和伝統工芸① 赤膚焼

赤い陶土から焼かれて生まれる赤膚焼
ポップでキュートな奈良絵が温かみを演出

天正年間、尾張常滑の陶工・与九郎が大和郡山城主豊臣秀長に招かれて開窯したのが、赤膚焼(あかはだやき)の始まりです。遠州流茶道の祖・小堀遠州や、江戸前期に活躍した陶工・野々村仁清が赤膚を訪れ、指導にあたったとも言われています。

 

赤膚焼に適した陶土は鉄分含有量が多く、山肌が赤みを帯びるほどであることから、「赤膚」の名があります。

 

乳白色の柔らかな風合いと奈良絵紋様が特徴で、料理皿や銘々皿、湯呑みのほか、花瓶、茶器、水差し、置物など多様な作品が作られています。

 

 

江戸時代中期以降、興亡を繰り返し、天明の頃、京都から赤膚山麓に入山した治兵衛が茶人としても高名な大和郡山城主の柳澤保光侯こと柳澤堯三侯の意向を受け、赤膚焼を郡山藩の御用窯として再興しました。また、赤膚山は藩政時代には、郡山藩の御林山として保護されていました。

 

その後、「中の窯(治兵衛)」「東の窯(岩蔵、勘治郎)」「西の窯(惣兵衛、忠治郎)」に分立し、赤膚三窯と呼ばれました。幕末には奥田木白が焼き物を始め、「中の窯」を用いて奈良絵茶碗など数々の名品を残しました。

 

一方この頃、田内梅軒の「陶器考」が出版され、小堀遠州七窯の一つとしても紹介されました。

 

 

赤膚三窯は明治20年代で終わりを告げ、昭和初期には「中の窯」を残すのみとなりました。昭和13年、赤膚焼の伝統の火を守っていくことを使命とし、「中の窯」を改め、「赤膚山元窯」が用いられるようになりました。現在は、八代目・赤膚山元窯・古瀬堯三に受け継がれています。

 

また、赤膚焼は鹿や三笠山、東大寺二月堂などをモチーフに描かれる「奈良絵」も特徴。由来は諸説ありますが、源流は東大寺大仏殿の銅座の蓮弁図にあるといわれています。現在では宗教的であるよりも、ポップで親しみやすいデザインとして好まれています。

 

「中の窯」を継承する古瀬堯三窯の他に5窯があり、奈良県固有の陶器として、それぞれの窯元が特色を活かして作陶に取り組んでいます。