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奈良の城⑦ 龍王山城

■十市氏

奈良盆地の東に位置する龍王山に築かれた龍王山城。北城は標高522m、南城は標高585.9mにありました。南北約1.2㎞の規模があり、国中との標高差は約485mで、比高では高取城を越える大和国随一の山城でした。

 

城主だった十市(といち)氏は、現在の橿原市十市に興った土豪で、十市遠清(とおきよ)が応仁の乱の後に勢力を伸ばして、龍王山城の城主になりました。のちに家督を受け継いだ遠忠(とおただ)は、天文9(1559)年、筒井氏との和睦をきっかけに勢力を拡大。興福寺から使いが訪れるほどに成長しました。領地は、東山中から伊賀との国境まで及び、龍王山を本拠に十市、式上、山辺の3郡を治め、6万石余りを領したとされます。

 

 

 

■城史
遠忠の死後、嫡子の遠勝(とおかつ)は、長年の同盟関係であって筒井氏の勢力下に入り、秋山直国に攻められた後、十市城へ逃れました。龍王山城は一時期、秋山氏が保有しますが、松永久秀の手に渡り、その甥・久通が城主に。しかし、信貴山城の戦いで松永氏が敗北し、久通は自害しました。

 

無主となった龍王山城は、天正6(1578)年、織田信長の山城破却令により、取り壊されてしまいました。

 

遺構として、今に原形をよくとどめているものに、土塁、堀割をはじめ、石段や礎石と思われるものがあります。また、往時の雄大な城郭を表わす資料として、「南北山城絵図」が発見されています。

 

 

■城郭
この山城は北・南の2つの峰に分かれています。北城は本丸で、南城は詰め城で、“別城一郭の構え”と称されます。平成9(1997)年に行われた、南城跡の本丸から平場までの発掘調査では、尾根や急な崖面が巧みに利用され、防御に優れた地形であることが判明しました。

 

礎石建物や石組も見つかり、その付近から瓦も出土したことから、建物は瓦葺きで、外観は蔵のように堅牢、内部は大広間があった程度で、ここでは日常的な生活はなかったと推察されています。出土した瓦には三角形の刻印があり、東大寺の土塀に塗り込められた瓦に酷似しています。

 

他に、自然石を人工的に配置した質素な庭園があり、山城では初めての庭園検出例ではといわれています。

 

 

■ハイキングルート
天理市は、昭和62(1987)年、崇神・景行天皇陵付近の古墳群と室町時代の龍王山城、天理ダムなど、古代・中世・現代の構築物を結んだ市内観光ルートを設定しました。

 

平成元(1989)年には、龍王山の山頂付近に桜の苗木が1000本植樹され、ハイキングルートを確保する林道整備も進められました。

 

龍王山へのハイキングは、長岳寺ルートなどがあり、歴史や自然を気軽に探訪できるポピュラーなコースとなっています。長岳寺近くの「天理トレイルセンター」で情報を手に入れることができます。