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奈良の城⑤ 信貴山城

松永久秀の壮大な山城

【信貴山に築城】

 

大和国と河内国を分かつ生駒山地の南域に、信貴山(標高437m)が端正な山容を見せています。16世紀前半の戦国期、山頂を中心に四層の天守櫓、100以上の曲輪などを擁した南北700m、東西550mに達する城郭が築かれていました。今となっては想像するしかありませんが、堅牢にして壮大な山城だったことでしょう。

 

 

【波乱万丈の城史】

 

信貴山城を語る上で重要な人物がいます。戦国乱世に生きた松永久秀です。久秀は1559年に城主不在の信貴山に入城。後に多聞城(奈良市)を築いて二城体制で大和国を治めました。

 

1565年に将軍足利義輝を謀殺し(永禄の変)、1567年には戦火に乗じて東大寺大仏殿を焼き払うなど剛腕手法で勢力を増強。しかし、織田信長への二度にわたる背信が破滅を招き、信長から「譲れば許す」と言われた「平蜘蛛茶釜」を粉砕して自決した―と伝わります。

 

信貴山城は、久秀と同じく波乱万丈の“人生”でした。

 

1536年、木沢長政が城郭を築きますが、わずか6年後、長政が河内太平寺の戦いで三好長慶らに敗れ、落城してしまいます。大和と河内の国境という要衝の立地に目を付けたのが、長慶の下で勢力を伸ばしてきた久秀でした。

 

信貴山城は久秀によって復権しますが、三好家との対立が深まった1568年に三好康長に攻められ、二度目の落城。それでも、久秀は信貴山城を見捨てず、すぐに奪還に成功します。
しかし、安泰は長く続きません。1577年に織田軍勢に包囲され、みたび落城。信貴山城は山城としての幕を閉じました。

 

 

 

【信貴山朝護孫子寺】

 

今、静かに山と森に埋もれる信貴山城。本丸があった山頂には朝護孫子寺の空鉢護法堂が建ちます。空鉢護法堂までは、境内から道程約600mの格好のハイキングルートです。

 

主家であった三好家をのみ込み、機を見ては信長に帰服したり背いたり。大和盆地を眺望する信貴山城で、久秀はどんな夢を見ていたのでしょうか。